ラナンキュラス
彼女はいつも部屋に花を生けている。小さな洋室のワンルームを、透明なガラス花瓶に飾られた季節の花が彩っていた。背の低い収納棚の上に置かれた、大きな花瓶は不釣り合いに目立った。
部屋の中央には、脚を折って簡単に収納できる小さなテーブルが置いてあった。玄関で僕を招き入れたあと、向かい合って僕と彼女は座った。彼女が足を崩しながら、ふとなにかに振り返るようにベランダから外を眺めた。その僅かな時間の動きが大きな鳥のようにしなやかで、つられて僕も外を見た。重たい雲が日曜の午後の空を覆っているだけだった。
「ちょっと待ってて。これ片付けるから」
畳み掛けの洗濯物から無造作に長袖のカットソーシャツを広げて、彼女はさっきの続きを始めた。彼女が俯くと、肩につかないほどの短い髪は頬から滑るように落ちた。僕の部屋にあるような生活の汚れが染み付いていない清潔な室内では、何をしていてもそっけなく感じられた。
行き場に困った視線を、彼女の背後にある棚の花瓶に向かわせると、それに気づいた彼女が洗濯物を畳みながら言った。
「あの花、綺麗でしょ。なんていうか知ってる?」
「なんだっけ。ケシみたいな」
「ケシなんか育てないよ。アがつくやつ」
「アカ……」
「アネモネ」
食い気味に答えを告げると彼女は立ち上がり、畳み終えた洗濯物を持ち上げてクローゼットの奥にしまいこんだ。そして一番大きく真っ赤な花を突きながらもう一度言った。アネモネ。
「育てたことある?」
「ない」
「私もない」
そのとき、この部屋には鉢がないということに気づいた。花瓶の中の切り花しかなく、彼女は花を育てているわけではなかった。
「植物を育てるのが上手な人の手は、水の手っていうんだって。枯らす人の手は、火の手」
「へー」
それから、植物を育てるのが上手い人は、よく観察している人だとも教えてくれた。よく観察しているから、その人が求めているものを与えることができるという。
彼女の部屋の真っ赤なアネモネの花は、くたっと茎をしならせて僕を覗き込むようにこっちを向いていた。彼女が水の手なのかはわからない。
何度か彼女の部屋を訪れて飾られている花を眺めていると、その傾向が徐々にわかってきた。球根の花が多く、一輪だけでも華やかなものを選んでいる。違う花同士を寄せることはなかった。
「だって違う花と一緒に生けたらケンカするでしょ」
「花がケンカ?」
「個性のぶつかり合いというか。例えばラナンキュラス、これ」
ふっくらと丸いピンク色の花を突きながら彼女は話を続けた。
「ラナンキュラスを花瓶に生けるときは、緑の植物と生けるか、一輪挿しがいいんだよ。ひとりでいたほうがきれいに見える」
「お高く止まった花だね」
「葉っぱはカエルの足みたいだけどね。ラーナってラテン語でカエルっていうらしいよ」
「意地悪な名付け方」
「原種のラナンキュラスはバターカップっていうらしい」
「バターカップも地味だね。なんだか口の中がパサパサしてきた」
ラナンキュラスはまだ咲ききってないらしくどれもまだ蕾だったが、しっとりと水分を含んでいた。
最後に彼女の部屋を訪れたとき、ラナンキュラスが盛大に枯れていた。彼女の部屋で花が枯れていることに気づいたのは、これがはじめてだった。
僕たちはいたって円満に別れ話をしていた。彼女が転職をし、引っ越しをするのを機に会えなくなるということだった。彼女の新天地は、けっして会えない距離ではなかった。彼女のいう「会えなくなるから」に意味があるようで僕は黙ったまま、今頃になって彼女の部屋がなぜ片付いているのかを理解した。僕は彼女の恋人ではなかったし、友達であることすら辞めなければならないけれど、情熱的になることもできなかった。
まるでラナンキュラスだけが落ち込んでいるかのような姿が痛ましかった。
彼女と別れてから、自分が何の手なのか気になりだした。
思いつきでショッピングモール入り口の花屋で50センチほどのモンステラを買った。ベッドサイドに設置して、気分に任せて水やりをしていたら、目に見えて大きくなっていった。火の手ではないらしい。
自分のことを水の手だと断言することはまだできないな、と思っていると、ちょうど職場の窓辺に葉が細くやつれて黄色く萎れた鉢を見つけた。
「そのユッカもうだめかな」と年配の女性社員が背後から声を掛けた。
「持って帰ってもいいですか。元気になったら戻します」
彼女は僕に返事をせず、張りのある大きな声で上司の名前を呼んだ。頭の上で僕がいったことをそのまま彼女が復唱すると、すぐに許可が下りた。小さな声で「よかったね」と彼女は笑った。
ユッカが萎びていたのは日照不足と、水を与えすぎたことが原因だった。黄色くなった葉をすべて落としたあと、ベランダに一週間ほど放置しただけで、中央から青々とした若い葉が伸び始めた。最初は短かった若い葉はすぐに鋭く天に向かって伸びていき、見違えるほど元気になった。
再び職場に持っていくと、女性社員がまっさきに反応した。みんなに聞こえるように、丈夫になったユッカを讃えた。
「誰にでも特技はあるものね」
「水の手なんです。植物がよく育つ人、っていうか」
彼女は黙って微笑んだ。けれど急にきつく僕をたしなめるように見つめ直した。彼女の言葉は体のいい嫌味だった。
ワンルームのモンステラは相変わらずどんどん大きくなっていき、朝目覚めると僕の髪や頬を無造作に撫でた。最初はそれが葉だとわからず、その湿り気を帯びたツヤのある感触に驚いた。生きているものがもつ瑞々しい気配を植物も持っていた。家に帰って部屋のなかに、彼らの人よりも澄んだ気配を感じると気が安らいだ。
やがて日常的に弱っている植物を100円ショップで探すようになっていた。売り物といっていいのかも疑わしい植物が並んでおり、見つけるなり買い占めて持ち帰った。だいたいは一週間前後でひと回り大きくなり、葉の色が濃くなり張りを取り戻した。最初はサイドテーブルの上だけに並べていたが、ベランダと室内に階段式の棚を作り、それもいっぱいになりつつあった。水と土の匂いは濃くなり、自分の呼吸とは違う緑の呼吸が無造作に鼻に入ってくると、自分の内側から脈打つ感覚を強く実感できた。
グリーンのなかでラナンキュラスはよく映えるのを思い出した。彼女と別れてから既に季節が一周しようとしていた。ディスカウントショップのガーデニングコーナーでラナンキュラスと再会した。幾重にもなる花弁は植物特有のうるおいを含んでいた。
こうして植物が自分の日常にすっかり定着したころ、近所のスーパーの鮮魚売り場を歩いていたら、向かいから俯きかげんに刺し身を品定めする長い髪の女性が歩いてきた。確かめるまでもなくそれが彼女だと本能が感じ取った。
僕を見るなり、彼女は泣き出しそうな顔をした。髪はいつの間にか胸元まで伸び、ツヤがなかった。大きく見開いた目元はくすみ、疲れが影を落としていた。
何より彼女はからだ全体から生活の匂いを漂わせていた。彼女の背後に立つ、僕よりも彼女よりも背の高い男性からも同じ匂いがするようだった。僕よりもひとまわり歳上だろう彼の、色褪せたくたくたのデニムやサンダル履きから、彼の家がこの近くにあるのがわかる。彼女は一年前に引っ越しをしたのではなく、彼と住むことに決めたのだ。彼女に寄り添い、小さなショルダーバッグの影で腰に手をまわしているのが目について、二人の時間を生々しく想像させた。
急に足を止めた彼女の動揺に気づき、反射的に彼が僕を睨んだあと、背後から彼女を包むようにしてカートを押し、二人は僕の真横を通って加工肉売り場の方へと過ぎ去っていった。
僕はビニルの潰れたマグロの切り身を探して手にとり、わずかなへこみに触れたあと、そっとかごに入れた。
部屋に帰り、「ただいま」とつぶやく。植物たちを見渡し、今度は何も枯れていないことに安心した。
了
写真:Canva
