サルスベリの夢のあと
青空と入道雲を割ってそびえる庭のサルスベリの周りを、二頭の大きな蝶がくるくると舞い上がったとき、私は昼寝から目を覚ました。まだ心は夢の中に残したままで、自分のからだの重さに戸惑ってしまう。
夏の空気は距離が近い。熱気が部屋にぎゅうぎゅう詰まって息苦しくなった。扇風機でちらしても、また何度でも集まってくる。見えないけれど、行ったり来たり。確かに移動しているのだけはわかる。クーラーを付けると、ブヲンと掃除機のように唸りながら、部屋いっぱいに膨らんだ夏を吸い込んでいく。次第に心も夢から還って来ていた。
今日はこれからミチコと会う。面倒な気持ちとそわそわした気持ちを、クーラーの冷気がかき混ぜる。その前に麦茶を飲もう。
湿度のせいで吸い付くように濡れているフローリングを警戒しながら、階段を降りていく。午後の日差しは柔らかく玄関をだいだい色に染めていた。ポンカンみたいな優しい色合いで、名残惜しそうになんだか寂しい。
冷蔵庫から麦茶をとって適当に注いで一口。喉が潤ってギュッと絞まる。改めて誰もいない奥まったリビングを眺めると、すっかり暮れている。
ここ一ヶ月くらい、私はアイスコーヒーに凝っていた。セブンイレブンで購入したもの、ドラッグストアで購入したもの、近くのスーパーはまずかった。思い思いに飲み比べて、ファミリーマートの一杯と出合った。運命を感じた。
蜜月は三週間続いたけれど、ある日ほんの出来心で浮気した自家製の麦茶を飲んだ時、コーヒーと変わらない味のように感じられた。何かが覚める時はそんなふうに突然訪れる。すると、一番近くにあるものを選んでしまう。それはしょうがないことなんだと思うようにしていたけれど、ファミマのコーヒーにはちゃんと愛されてほしいとも願っている。
まだ愛していたい理由もあった。
自転車に乗って駅の近くの食堂へ向かうと、ミチコはチャーハンを食べていた。
通路沿いの大きな窓からその姿が見えて、思わず「なんでまっててくれないのお」と口をパクパクしていたら、チャーハンのおいしさをミチコがあまりにも必死に表現してきたので、許すことにした。急いで自転車を停めて店内に入ると、重たい冷気が満ち満ちてのみこまれそうになった。溢れた冷気は、入り口のマットをよだれのように湿らせていた。
ミチコの顔は真っ黒だった。もともと地黒ではあるが、今日のはなんだか食べたら苦そうな色をしている。
チャーハンが無くなったようで、ミチコは何回か口をもぐもぐさせた後、冷たい水でいっきに流し込んだ。
「さっきまでアソウたちと海いってきた。遠かったよ、電車で二時間以上かかった。悪くないけど、疲れた。遠い」
「電車で二時間もなにするの?」
「トランプ」
「それはそれで意外なんだけど」
「アソウが“最近大富豪に目覚めた”とか言って、リュックにトランプと一緒に100均かどっかで買ったトレー持ってきたんだよ。ここにカード入れるみたいで。ボックス席じゃないから、トレーを横に移動させながらやってた」
「はたからみたらヤバい人たちだね」
「意外とトレーが活躍して、楽しかったよ。平日の海浜鉄道は視線がない」
「そういうものなんだ」
「そういうものです」
なんか食べないの?とミチコに促されるままに、私は杏仁豆腐を頼んだ。お店の人が、他にご注文はありませんかと二回言ったけれど、かたくなに杏仁豆腐しか頼まなかった。
「夏らしいことしましたか、ユキさんは」
「ちょっと前まで連日ファミマに通ってた。コーヒーうまい」
「私はセブン派だわ」
杏仁豆腐が届く。ぷるんと色白くて思わず笑ってしまった。
「ミチコは、まっくろだね」
「ユキも黒いよ」
私の家からファミマまで自転車で40分くらい掛かった。大きな上り坂を昇った後に緩やかに下った先、森のように木々が生い茂る道を抜けると大通りに出た。その通りに面してファミマはこつ然と現れる。いつも焼き鳥が品薄で、チキンが余っていた。
そこでひとつアイスコーヒーを頼むのが毎日の日課だった。公立の進学校に通う私はバイトをする余裕がなかった。けれどムキになって勉強するほどでもなかったので持て余した時間で、アイスコーヒージャーニーを始めたのがきっかけだった。
月一万円のお小遣いを切り崩して、ひいきにしていたファミマに通っていると、いつも同じ店員さんがいた。きっとそれほど歳が変わらない若い男の人だった。
一週間すると顔を覚えられて、あまりに毎日来るものだから店員さんは吹き出して笑うようになった。可愛らしい人だなあとぼんやり思った。コーヒーを買うのだけが楽しみだったのに、自転車に乗っているあいだじゅう、彼が今日は吹き出すかどうかを確認したい気持ちに駆られ、真夏の炎天下における40分をあっという間にさせるのだった。
「ファミマに通ってた」
「きいた」
「毎日だよ」
「なんでまた」
「……コーヒーうまい」
「それもきいた」
食堂から駅までは、入り組んだ細い道をするりと抜けて400メートル、走ってもそれほど疲れない距離のところにあった。自転車を押して歩く私の隣を歩くミチコはすっかり疲れていた。ビーチサンダルがアスファルトにこすれてザラザラと聴こえてくる。
ちょっとノイズの混じった波の音みたい……とミチコに伝えるのは狙いすぎていてヤだなと思ってためらった。
すっかり暮れて夏とはいえ電灯のあかりが眩しく感じる時間帯だった。海の帰りに会う約束をしたのは、悪かったかもしれない。自己嫌悪にさいなまれるほどに、サンダルが擦り切れる音が大きくなるような気がした。
「二人乗りしようか」
返事をする前に、ミチコは荷台にまたがった。
「いっくよお」
思いっきり漕ぐと、グゥオンと音を立てて苦しそうにタイヤがうなる。ゆっくりゆっくり進んで次第に加速がつく。
「夜はやっぱり涼しいねえ」
「多少はね。でもユキの背中が暑いわあ」
「がまん」
顔に小さな虫が当たりそうになるのを避けて進む。そんなに距離はないけれど、なんだか無性に長く感じるのは、周りが暗いからだろうか。あっという間に駅前へたどり着いた。
「誰かいる」とミチコが言う。
店員さんだ、とっさに思った。
もとい、“思った”より“感じた”に近い。これはなんていうか、思い込みめいた強い胸の高鳴りだから否定しようがないのだ。もう一人はわからない。けれどたぶん女の子だ。脚の白いのがうっすらと確認できる。
「カポーですよユキさん、青春してますよ」
「けしからんね」
店員さんと外で会うのは初めてだった。私服のハーフパンツはファミマの制服よりダサかった。彼女の手を握ってはそれを持ち上げて、振り払おうとしてまた強く握る戯れが確認できた。薄暗い中にも青春の瞬きとやらはあるかのように、ぼうっと光って見えた。
「あの子、相当白いね。夏をエンジョイしてない輩だ。いかんねユキさん」
「私たちは、あっちからは見えないのかなあ」
「見えないでしょ、私たちは黒いもん。夜に同化してる」
胸元を何かがむずがゆく、掻きむしりたくなるような衝動とともに、そうじゃなくって、と言おうとして不意に隣のミチコを見ていると、思わず笑ってしまった。ハイビスカスのTシャツを着た、短パン姿のお気楽な親友が、たまらなく愛おしく感じる。
「黒いねー、これじゃあ見えないわ」
あったのかなかったのかもわからない恋がたち消えると、無理をしてまでファミマに通わなくていいんだと、心のどこかでホッとしていた。
もうファミマでコーヒーは買わないだろうなあ。けれど、彼が職場でコーヒーを見ながら、私のことを思い出したならそれはそれで面白いかもしれない。真っ黒に焙煎されたコーヒー豆の化身ぐらいには、なれたのかもしれない。誰に伝えることもなく、そっと思うことにした。
了
