モモン
小学一年生の頃、私には変なあだ名が付いた。
その時に流行していた戦隊モノのなかに、たぬきとパンダを融合させたような間抜けなキャラクターがいた。
メガネを掛けていて、白衣を着たマッドサイエンティストのような敵キャラだった。名前を、「モモン」という。
クラスで唯一私はメガネを掛けていたからだろうか。クラスメイトの秋山が、私のことをモモンと呼ぶようになった。みんなが私を「みゆきちゃん」と呼ぶなか、秋山だけは私を、モモンと呼んだ。しぶとく、なつっこく。
照れたようにニタニタと、頬を膨らませている秋山の顔が、なんだかムズムズと憎たらしかった。リスかモモンガのようだった。
その日は給食係として、私は味噌汁をよそっていた。
配膳の列に並ぶ秋山が、こちらをチラチラ見つめている視線に気づきながらも、いかに等しくよそることができるかにだけ、当時の私は集中しようとした。
じわじわと列が動き、ついに私の前に秋山がやってきた。
「モモン!」
狙ったように私の目の前で、秋山が叫んだ。
思わずキからおたまが落ちた。
ボチョンと、間抜けな音が味暗汁鍋に響いた。
「なに!」私は思わずその言葉に返事をしてしまった。
もう一度「モモン」と秋山が言った。ゆっくり、確かめるような言い方だった。そして次の瞬間の、秋山の不気味で無邪気なほほえみが、私の背中のあたりをソワソワさせた。
この奇妙なやり取りは、教室全体を黙らせた。
次の日にはクラスのみんなが、私を「モモン」と呼んでいた。
モモンは何より、小学生が口に転がして楽しい、あめ玉のような、病みつきになる響きを持っていた。
「モモンはぼーっとしていると、ロが開いてるよね」というのは、佳子ちゃんの弁。
「モモンちゃんは、ウソが下手だよね」と、ミキちゃんはよく言う。
「モモン、題見せて!」と、乱暴にノートを奪う章人くんには、逆らえなかった。
戦隊モノのキャラクターから、私のあだ名としてモモンが定着するのに、時間はかからなかった。私の中にモモンはスッと溶け込、誰かがモモンと呼んでくれるのが待ち遠しいくらいだった。
過疎化が進む田舎町の小学校は、六年間クラス替えがない。
けれど中学生になり、近隣の地区の小学校からも集められた生徒は、一斉にただの苗字になっていった。私もまた、ごく自然にサハラミユキに戻っていた。
中学校生活のたった一年で、サハラサンは大きく育った。つたのように体をめぐり、けれどかたくて大きな鏡のようにもなって、体や頭、心にまでぎっちりと覆っていた。
とはいえ、サハラサンはモモンのように、なつっこいものではない。
サハラサンは、モモンと違って私に慎み深く、一定の距離を保って、私のそばにいた。
サハラサンは私に入り込まない。どころか、誰かにサハラサンと呼ばれるたび、突き放されるような心地がした。

一学期の中間テストの期間に入っていた。
朝、正門横の駐輪場に自転車を停めると、私は目をつぶりながら、パチンと胸元のスイッチを入れる。
遅刻しそうな時間だったが、必死になって走るのはサハラサンっぽくない。
教室に向かう廊下は長い。途中の螺旋階段は、油断すると転んでしまいそうなほどツヤツヤしていた。梅雨時の湿った階段の手すりは、しっとりと生暖かい。
階段を登りきって、廊下の窓から差し込む光は心もとなく、厚い雲の隙間からわずかに白く光が差している。
雨が降るような重たい空ではないけれど、ふてくされたような感じだ。
窓の外を眺めていると、こめかみがうずいた。台風が近づいているのかもしれない。
教科書や参考書を持った生徒が、教室の端に立って、焦ったような声で会話をしている。
「社長出動だね、佐原さん」
「おはよう、佐原さん。その顔は昨日も遅くまで勉強してた、って感じだね」
「佐原さん、えんびつ忘れちゃったから、貸して!」
一個ずつ丁寧にやり過ごす。
サハラサンは、モモンのように気安く笑ってはいけないような気がした。
サハラサンッテ。サハラサンダカラ。サハラサンッボイ。
サハラサン、サハラサン、サハラサン。
「佐原さん、佐原さん」誰かが私を呼んでいる。声と声とが、渦になって耳の奥でとどこおる。
「誰か、先生呼んできて!」
いつのまにか、私ではなく、みんなが先生を呼んでいる声に変わっているのが、うっすらと遠のく意識の向こうで聞こえてきた。

保健室のベッドで横になっていると、少し遅れで誰かが中間テストを受けに来た。あらっぽい動きが、男子生徒らしかった。
六月十日は蒸し暑く、けれどクーラーをつけなければならないほどの暑さには足りない。
大きく窓が空いていた。窓のカーテンと、ベッドのカーテンとが別々に揺れている。
二つの異なる動きをしたカーテンの隙間を、私はじっとみつめていた。
その日は台風が近づいていたこともあいまって、ときおり強い風が部屋に吹き込んできた。窓辺のカーテンだけでなく、薄い一枚のカーテンをひるがえらせる突風は、その男子のしわのない真っ白なシャツの背中や、半袖からく伸びる腕をちらりと見せる。
鉛筆を走らせる音が聞こえる。
仰向けになって目をつぶっていると、背を向けて机に向かうその人が、もっとすぐそばにいるような、温度を感じた。この一体感は、微熱のせいだろうか。
ぼうっとする頭を枕に預けながら、この得体のしれない気持ちが伝わってしまうんじゃないかと妙に怖くなった。
ああ、ならいっそ、強引に投げてしまえばいいんじゃないか。
額に力を込めて、私は念じた。言葉にならない重たい気持ちを、重たいまま念じた。
薄いカーテン越しに、あまりにも真っ白なそのシャツの背中に、何も言わずにそれらを全部吸い込んでいく。
背中が汗で冷たくて、ゾワゾワした。
「佐原さーん、体調どう?」
保健の先生の声が突然したかと思うと、勢いよくカーテンをシャンと開けた。
先生を挟んだ腕の隙間から、思わず座ったまま振り向いた秋山と私は目があった。
やっぱり、どんぐりを頬に詰めたような顔だった。
「モモン」
「はい」
間抜けな返事が、私からこぼれた。
「佐原さん、微熱あるんだったよね。どうする、教室戻る?それともこのまま帰る?」
先生は大声を張り上げて、ベッドを覆っていたカーテンをすべてたたみながら言った。
その言葉は暗に「このまま、ベッドに寝かせてはおけないよ」、と示しているかのように感じられた。
慌てて「戻ります、教室に」と言った。
先生は私を確かめるように眺めてから、「大丈夫そうね」と言った。
髪を手ぐしで整えながら、ベッドから降りて先生に一礼すると、私はもう秋山を見ることなく、教室へと戻った。
保健室を出た後も、こころなしか体はまだ熱に浮かされていた。廊下を歩く足音が頭にペタペタ響く。けれどそれがなんだが、心地よい。
そんなことより、体に重く張り付いていたなにかが、ふっと私から離れていったような、身軽さを感じた。
秋山の放った「モモン」という一言が、まだ耳の奥に残っている気がする。
この身軽な心地で、みんなの前に出ていきたかった。

教室の扉は半開きになっており、白衣を着たクラスメイトが給食の配膳をしている姿が見えた。
扉の取っ手に手を掛けて、私は深呼吸する。
「いま、戻りました!」
教室のみんなが一斉にこっちを見た。少し勢い余ってしまったかもしれない。
「佐原さんって、そんなに大きな声出るんですね」と、誰かが言った。
女子生徒だった。
けれど喉元まで押し寄せた声を、私はゴクンと飲み込んでしまった。
その子の名前が、わからない。
了
